誰かを、ひた待つ

 

愛のことを学ばなくてはいけなかった理由は、私にはどうも、それを学ぶだけの何かがあったからだと思うのです。

それは目に見えぬものだったから、私には自分に何があるのかはその時はわかりませんでした。

息子の父親に、「アンタの凄いところは、センスでも外見でもなんでもない。その愛情深さだ。」そう言われたとき、わたしには何のことか全然わかりませんでした。暴力的な関係になる手前の、今から7年くらい前のことです。

彼は私に人生でもっとも辛い試練と、そして愛を学ぶ旅、セラピストとして生きる道と、かけがえのない舵央(息子)という存在を与えてくれた。

 

たくさん、許してきました。どんなに苦しい時間も、愛で乗り越えてきた。まだまだ学ぶことは無限にあるけれど、この数年でたくさんの人と人との交わりの中で、自分が見出してきた愛と感謝の更新履歴は、おそらくいつか自分の中にある「愛」に一切気づいていなかった自分には想像だにできなかったことだとそう思うのです。

自分を犠牲にしたり、自分に鞭を打つのではなく、ただひとまわり自分が成長しなくてはいけない機会はたくさんあります。どれだけ自分を広げていけるかは、ただ自分の選択であって、止まることもできる。自分を広げるとは、ただ目に見えないもので、ふわっと胸のあたりが膨らんで、内側から愛がパチンと弾け、そして一度今まで纏っていたものが消えて、新しいもの纏うという繰り返し。

それは、とても尊いことであると同時に、たびたびたくさんの痛みをわたしたちに与えます。だから学びとかレッスンという言い方と、ギフトという言い方はいつもセットなのです。

わたしは、それを、仕事だから、セラピストだから、誰かにその学びをしてほしいと思ってるわけではないと思ってます。少なくとも少し前までは、理由がわからなくて、ただがむしゃらに他人にそれを望んできた。

でも今、それは冒頭で書いた「愛」の先にただそれがあるんだという感覚に変わりました。

 

自分が癒され学んでいった先には、それを必然的に分け与えていく道にひとは進んでいく。
いつもいつも話しているけれど、自分が苦しかった時間よりも、もっと苦しみは高度になってゆくよ。なぜなら、一番その痛みをよく知っている自分の目の前で、一番愛しているひとが、その痛みを感じる時間に耐えなければいけないからです。

 

誰かをひた待つ、という愛は、おそらく今のわたしにとっては一番難しいと感じていることで、でもそれしかない時間。

それは未練とか執着のような過去への渇望ではなくて、誰かを本当に愛するということを選択したときの、長期的なあり方のこと。

 

癒したら結果が出て、自分が成長し、大きく光の中で息を吸える時間は素晴らしくて、すべての人に体験し続けてほしいことだと思っています。

でも、そうじゃない、誰かがそれを、やろうとしているときの、結果が出ない時間を

どんな風に過ごせるか。どれだけ愛せるか。どれだけ、じっと、待つことができるか。

 

キオスクにねや、自分がやっていきたいこと、実現したいことや
今変わりたいと思っているすべてのひとへ

わたしはただ祈るようにして、待つんです。

 

芽が、出るかもしれないし、出ないかもしれない庭に
同じように愛を注ぐこと。

 

すごく、胸が締め付けられるような思いがしても、きっといつかのあの日に

愛を学んでいく旅に入った私は、歩み続けるのだと思うし、とても時間がかかったとしてもきっと後悔はしないと思うから。

 

 

 

 

 

 

You Might Also Like

No Comments

    Leave a Reply