ひとりごと 松永について

わたしを突き動かすもの 2/2

 

1つづき

 

ワークショップ当日、すがすがしい気持ちでイベントを終えて、わたしはなんて祝福すべき最良の日だろうとそう感じていいました。

ただすべてが愛おしくて、楽しくて、軽やかで、キラキラ輝いて見えた。

わたしは無邪気に喜んで、幸せを味わっていて、何度も美奈子さんに

「楽しかった」「ありがとう」と呟きました。

 

 

終わってから、美奈子さんの身の上におこった家族とのことを、簡単に説明して、癒しが起こるときのプロセスや、「与える」こと、「愛する」とはどういうことかを話しました。

いつもキョトンとした顔で、わかったようなわからないような風で帰っていく彼女だけど、これまでずっと見てきた中で

こんなにも良い状態の彼女を見たのは初めてだなと思いました。

 

良い状態というのは、可愛いとか綺麗とか元気とかしあわせそうとか、体調がいい、みたいな

一時的なことを指すのではなくて

シンプルに、一段成長し、シンプルにひとつ大きな癒しを済ませたということ。

 

 

それは、明日になったら消えるものじゃないんです。

一度、その足で上がったときに、もう二度と、落ちないようになっている、永遠の魔法。

 

 

それを、祝福と呼ばずして、ほかにどんな表現をしたらいいのかわたしには今のところ

ことばを持ち合わせていなくて、

ただ、噛みしめるようにして彼女を送り出したあと、「いい日だった」と山下にもつぶやきました。(山下参照こちら

 

わたしは、美奈子さんが癒されたことが、自分で思っていたよりもきっとずっと深く、嬉しかったのだと思います。

それは、わたしがずっとずっとずっと、探してきたその「何か」でした。

 

癒しには、価値がある。

 

それは、これ以上ない祝福で、そして、決して簡単に起こるものではないことをわたしは知っている。そこに向き合う時、たくさんの、見たくないものと対峙しなくてはいけないこと。

一夜で簡単に起こってそしてあっという間に消える魔法じゃない代わりに、いちどかかればずっと失われることのない、特別なもの。

そして、それは、たとえ何十年時間をかけたとしても、どれだけゆっくりだとしても、わたしたちが本質に戻っていく過程において、ほかのどんなことよりも、意味のあるもの。

 

美奈子さんは、「わたしは、自分のこともひとごとみたいに生きてきた」

とそう言って泣きました。

あまり感情的ではないのですね、どちらかというと、感情と不自然なまでにぶっつり切り離されてきたような感じ。

そのおかげで安定感はあるけれど、それでも、事あるごとにわたしの前で感情をこらえてきたのを見てきたわたしは、それが止まらずに全て流れきることを望んできました。

 

彼女の表面の意識は、なにもわかっていません。

説明することも、言語化することもほとんどできないし、今回癒しが起こったときのことも、

「よくわからんけどそうなったんだわ!」

 

というくらい。

 

 

そして、それでいいのだと思いました。

わたしたちは、自分本人がほんとうになにもわかっていなくても、

ひとつも理解できていなくても、説明ができなくても、

それでも深い部分の潜在意識というものさえ信頼できることができれば、美奈子さんのように、必要なときに必要なことが起こるように、できている。

 

 

彼女がわたしのことを手伝ってきたのには、自分が向かう先を

深い部分では知っていた、という本人も多分わかっていない理由があるのです。

 

そうでなければ、会うたびに、仕事の話ではなくパートナーシップや家族についてで

わたしに泣かされることに耐えられないと思うから。

 

 

癒していくということを、最後まで諦めなかった。

そこには死闘もドラマも激しい出来事も苦しみもありません。

本当に穏やかに、そっと雪が溶けて春がやってくるように彼女はひとつ、浄化された。

 

 

それは、でも、苦しくなかったわけじゃなくて、

どんなときもただ、「なにかわからないけれど」「なにかを」信じてきた結果であって、最後にポッとその瞬間が訪れたときが静かだったというだけ。

 

タクシーの運転手が見せる地図に、どんな苦しかったときも、
一生懸命身を委ねながら歩みを止めなかった結果だとおもいました。

 

 

わたしは、セラピストとして、ここにいて本当によかったとそう思った日です。

誰かが、目の前で、なにかを乗り越えた瞬間ほど
ただ言葉にならない深い喜びを感じることはないなあと素直にそう感じました。

 

それはなにも自分が手をかけたクライアントさんに限ったことではなくて、この世界で生きとしいけるすべてのいのちが、癒しという恩恵を受けた時の安堵のような、しかるべき場所に戻っていったような感覚です。

 

カウンセラーやセラピストはこの世界にたくさんいて、それぞれがそれぞれのやり方で、それぞれの想いで、目的をもって悩みを解決しようとしている。

それは、自分が苦しかったところから癒された素晴らしさを伝えたいからかもしれないし、ただひとの役に立ちたいとか、自分がそういう仕事で認められるという自己実現だったり、エゴを含んでいたり、ほんとうにいろんな理由があると思います。

 

わたしにも、最初それを始めたときに、なぜセラピストになったのかは

全然よくわかっていませんでした。いろんなことを試しました。

 

 

ただ本当に最近おもうけれど、勝手を知っている人間というのは、その勝手を知らない人間に向けてただ教える義務のような、それを使命と呼ぶならそうですが、

ただ他のひとが知らない道を知っているから、案内人をしなければいけないんじゃないかなと

とてもシンプルにそう感じるのです。

 

 

それは、カウンセラーやセラピストに憧れているひとにとっては、あまりロマンチックではなく味気ないように思えるかもしれません。

 

もっとなんか、感動したり、自分の夢をかなえたり、なりたい自分になっていく喜びみたいなものを感じるために、それを追求して深めることは確かにできます。

 

でもそれもわたしなりに色々経験してきて、最後に残るものというのは、

好きなことをやれていることや、楽しいと思える仕事をしている自分、嬉しい!
認められたり、お金持ちになったり、人気が出たり、夢がかなった!

 

みたいな個人的な感覚ではなくて、本当にもっと大きな、広い世界のなかの一部のコマとして動かされている感覚です。

わたしはおおきな歯車のなかの一本のネジで、決して欠けてはいけないし、
とてもひっそりと一見つまらない存在だけれど、重要な役目を果たしている。

 

 

 

何度も、一本ネジが抜けたくらい、誰も気づきやしない。と思ってきました。

代わりなんていくらでもいるし、癒しなんて、必要ないひとには必要ない。

学びは何度だって繰り返されるけど、そんなこと、わたしには関係ないし、たとえわたしが

本当にこころから誰かの成長や癒しを願ったところで

本人にやる気がなければ、それはただの無用の長物だ。

愛は、腹を満たしてはくれない。

癒しは、目に見える豊かさを与えてはくれない。

人は、目先の喜びや楽さや、目に見える形あるものにしか飛びつかない。

 

でも、そうじゃない。

 

 

 

誰かが、今日もどこかで、小さな勇気をもって

なにかに立ち向かってゆくこと。

 

それを、自分のすべてをかけて、支えていくこと。

 

 

世界のどこかで、誰かがひとつ階段を上がり

癒されたこと

 

 

誰にも気づかれぬようにひっそりと

本人も気づかぬほどにひっそりと

 

 

それを想うだけで、涙が滲む

 

わたしが、この仕事をしている十分な理由です。

 

 

 

 

 

 

 

 

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