命/生きること 音声/動画

死にたいという感覚は普通ですね

チャックスペザーノ ”傷つくならばそれは愛ではない” より
If it hurts, it isn’t Love / Chuck spezzano

Day 106

すべての役割の背後には、死の誘惑がつきまとう

 

 

 

 

 

 

 

悲壮感漂うかんじで、「ああ、死にたい」って感じで思っていた時期もあったんですが、いまはものすごいポップな感じで、「ああ、死にたい」と非常に前向きに感じてます。

 

今日は散歩のときに、「死にたい」という渇望というのは非常に健全な感覚なのではないかな〜

と考えていたのですが、なんというか、死にたいには二つあって、ひとつはまだ「生」の意味というか、その感触みたいなものがわかっていない時の死にたい。

これはねえ、辛いんですよね。

もう一体全体、自分はなぜこの世界に存在しているのか?

と忌々しいの極地で生きるわけなので、たまらなく辛いと思います。

ただこれも、結構つきつめていくと、どこかがおかしいとかそういうわけじゃなくて、誰もが持つ普通の感覚。

 

それでね、そのあと死という概念を越えていくと、次は

「死に向かってまっしぐらに生きる」という、

「ぬおおー!おれは死ぬぜ!!!!(あと50年後に!!)」

って感じになります。

 

これも感覚としては、「ああ、死にたい」という感覚がつきまとうのですが、こちらは苦しい感じではなくて、今この瞬間にものすごく「生」に惹きつけられている、どちらかというと「今自分は生きている!!!」という感覚に近い。

でもすごく面白いんですが、「命」というものを体の内側にはっきりと感じられるようになってくると、それはちょっとだけ、「死にたい」という感覚に似ているのです。

わたしが死という概念を完全につきぬけたのは昨年のことなんだけど、そのあとはもう二度と「死にたい」と感じなくなったのと同時に、超ポジティブな死にたいが出た時、そうか、生と死というのは同じ場所にあるのか。

と肌で理解できた瞬間でした。

 

 

多分、いろいろ悩みがあって、その都度自分を否定したくなるような出来事とか、受け入れられないこととかがあると、生きているのが辛くなることもあると思います。

それはそれで、癒し続けていくと本当に減っていくっていうか、いちいち絶望に伏して「死にたい」と思うことすら無くなってはきます。

 

が、究極は、「生」というものがなんなのかを本当の意味で理解していくことが、死への渇望から永遠に自由になる唯一のひとつの方法なんじゃないのかなあと思う次第であります。

 

上の本の朗読ですが、「役割を演じていると、そこには死への誘惑がつきまとう」という内容になっていて、それはまた別の話ですが、よろしければぜひ聞いてみてくださいね〜。

 

こうであらねばいけない、こうしなければいけないからしている、

という、ある特定の役割(仕事でも妻でも母でもすべて)に徹しているときに、苦しさが押し寄せてがんじがらめになってしまう時。

そこから真に自由になって、ただの自分であることが、唯一ほんとうの幸せへと向かう道です。

 

ちなみにわたしもこれまでなんども役割にとらわれて苦しんできた過去を経て、最近はね、ハマると死にたいっていうかは

会社が始まるとお腹がいたくなる人みたいに、わかりやすく反応します。

そういう時は、やめちゃう。

 

 

自分が自分であることよりも大事なことは

この世界には無いと思いますよ。

 

というわけで

苦しくてたまらなく死にたい、自分はどこかおかしいと思う方がいたら、それはいたって正常である、ということ。

と、もしかしたら死への渇望は同時に生への強い希望が潜んでいるということ。

と、どこまでが自分で、どこまでが演じてる?

がわからなくなっているから、かもしれませんよ。

 

 

 

 

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