実用-practical 高次元/スピリチュアル

表層1ミリの、その下に。

誰かに何かを思われたりとか、言われたりだとか、こう感じられたらシャクだとか。

そういう風に思うから、自分が自然な欲求のままに生きることができなくなる人がいる。

 

誰かに何かを思われなければ、きっとわたしはこんな風に話すだろう、とか

誰かに見られていなければ、きっとわたしはこんな仕事をしているだろうとか。

それには、もっと小さな、日常てきな習慣も含まれていて、たとえば「わたしは緑色のリンゴは食べないことにしている」

とかも含まれている。

 

それは、うえのようなとても日常てきなものから、恐怖のような感覚の時もあれば、それを越えた先により自分を表現した世界に進んでからも、ステージごとに訪れる感覚のように思う。

 

誰かに対する怒りのようなものを、怒りとして感じられなくても、たとえばその

「わたしは、りんごは食べない。」

そう決めているようなことがあるときに、その理由が誰かにとって好都合で、それが悔しいから、みたいな本当の理由。

 

そういう生き方は、とてもサトル(subtle )に、自分が本当にやりたいことや、ありたい姿から輪郭をずらしてゆく。

ちょうど焦点の合わない乱視で見えるみたいな、3Dのメガネをかけて青と赤が二重に見えるときみたいに。

(Subtle=気づかぬくらい微細なレベルで。)

 

ではそういうときにどうしたらいいかというと、エイっとやりたいことをやっていく方を地道に選んでいくしかないのです。

 

「本当は、会社なんてやめて、自由にものづくりがしたいんだ、
でも旦那さんの目があるし。」

 

こういうのは結構ハタメにもわかりやすくて、不安とか怒りとか、許してもらえない相手のせいにするのをさっさとやめて、全ては

「自分が自分にそれを許可していないだけ」なのだ、と気付いていくこと。

 

ただ、今日言いたかったのは

自分ではっきり気づいていないレベルの、とても小さな、こだわりについて。

 

こだわりは、小さな針の先くらいの怒りを孕んでいる。個人てきな誰かに対してではなく、世界や社会に対しての場合もたくさんある。

 

それを、胸を張って自分の個性だと思うのではなくて

ただ形を変えて、より高い次元で自分がより自分に近づくための気づきに変えていく。

 

それはそれは、とても微細な目に見えない錬金の作業で、外からみたらきっと、金色が金色に変わるくらいに変わらない。

むしろ、外側の色は鈍くなるかもしれない。

 

それでも、小さな意固地からくるささやかなこだわりが消えるとき。

その完璧主義は、あらたな姿で私たちを底から支えてくれる。

 

怒りは、たしかにものを生み出す、前に進む、うえに駆け上がる原動力になる。それを一見正しいことのように、正義を掲げて活動しているひとは山ほどいる。

 

それでも、その微かな感覚に耳を傾けてほしい。

 

そこから生み出されたものと、愛から生まれたエネルギーの違いを、
感じ取れるようになってほしい。

 

誰にも気づかれなくても、誰も褒めてくれなくてもいいから、たったひとりの自分のために。

誰かに得をさせて、悔しい感覚を覚えながら、それを許し、誰かのためにいつか諦めた何かを、自分のために取り戻すこと。

その積み重ねだけが、わたしたちを本物にするから。

 

 

 

 

 

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