命/生きること 女神の台所-食のはなし 音声/動画

なぜ、食べなければいけないか(朗読)

自分がやっていること、目を向けていることは色々なところにピースが散らばっており、
時々そこは網の目のように複雑になり
どこに向かっているのかわからなくなる。

それはすごく後になってから、ピースとピースが繋がっていたことがわかったりする。
すると、結局向かっていた場所はひとつだったことがそこでやっと、理解できる。

すこし前に、物質世界へのとらえ方への、西洋観と東洋観の間の矛盾について
どうしても自分なりに解きたくて本を読み漁りはじめた。

いわゆる「引き寄せ」、望みを現実化するプロセスとやり方というのは
もともと西洋の概念から成り立っている。

とてもシンプルな考え方で、いまは誰もが知っていることだけれど、
それは知れば知るほど
東洋的な「ありのままを受け入れる」という「苦」への肯定がベースにある感覚とは
相容れないものがあり、

そこを自分なりに統合したい。

そして誰もがわかることばで、わかりやすく説きたいのだ。

そんな時に、まず近所の図書館に行き「東洋」「西洋」「矛盾」

みたいなキーワードを入れた。

そして上がってきた検索結果に、イエスとブッダのことを書いた、
マインドフルネスで有名な
ティクナットハン氏の本と、

なぜか

尊敬する辰巳芳子先生の本「食の位置づけ」が出てきたのだった。

それは、わたしをうち震わせた。

食べることについて、自分にとって東洋と西洋の位置付けは
あまり問題ではなかったから、自分が、延々「食べる意味」「生きる意味」
を考え抜いてきている未熟な身で

辰巳芳子先生がそれを生涯かけて追求されていること自体
畏れ多いのに、わたしが別の場所で疑問に感じていたことを
先生は「食」を通して説いてくださっている。

自分のような浅はかな人間が、先生の本を読むこと自体
いつも憚られる気持ちがして、躊躇してきた。

でもそろそろ自分の魂が
なんどもなんどもノックするように
早く始めなさいと繰り返す。

食べることと命の真髄に触れるたびに、
むやみやたらとこみ上げる涙のこと。

いつかニューヨークに渡るずっと前
20台半ば食の道に入ってウロウロしていた頃
鬱蒼とした夏のことだった。

セミの鳴き声を聴きながら

辰巳芳子先生の、京都の講演に足を運んだ。

凛とした、どこまでも厳しい女性だった。
その、どこかの短大だかどこかの体育館ホールは、

朗らかさや優しさ、楽しげな雰囲気ではなく

骨の髄まで食べることの酸いも甘いも厳しさもわかった人の、
その深い愛に包まれていた。

その場所は、自分にとって
足を踏み入れたら最後

二度と、戻れないような聖地のなかの聖地のような気がした。

わたしはそこに、戻ろうとしている。

生涯かけて、先生が辿った道を
自分もまた死ぬその日まで、きっと追求しつづけることだと思う。

台所で、命のはなしをしよう。

「食べていくということは本来厳粛なこと。大事業なのです。」
「食べることは他のいのちと繋がることである」

ー食の位置づけより

 


その夏の日。
先生が何を話したか、食のことはひとつも覚えていない。

ただ、Tシャツのような寝巻きに、アイロンをかけるのです。
と厳しい口調で言い切ったことに心から感動したこと。

そして、館内で帽子を被っていた男へ
さらに厳しい口調で、それが無礼であることを切々と説き、ものすごく怖かった。

わたしが家の中で帽子を被るなと息子にしつこく言うのは、
多分その時の記憶からだろうと思う。

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